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G-lip 男の“気になる”を刺激するメディア

テレビ局で働きながら、趣味の延長に副業をおき、二足の草鞋を履く

ヒト 2019.12.09 by G-lip E 編集部

前編では、自転車で通勤することのメリット、運動不足やフィットネスに自転車が最適だと教えてくれた疋田さん。

その好きだった自転車が起点となり、通勤を始め、人生の中で一度はやってみたかった、「本を書くこと」に至る過去を掘り下げてみると、”やり続けること”の大切さが見えてきました。

現在も会社員として働きながら、書籍の出版や講演活動を積極的に行っている中で、何かと話題に上がる副業について、疋田さんはどう考えているのか?
副業をはじめたから見える景色、会社と違うフィールドを持つことの先をお伝えします。

〈インタビュアー:イノウエ〉

会社員として二足の草鞋を履く

イノウエ

疋田さんは、TBSで番組プロデューサーと並行して、自転車ツーキ二スト(自転車通勤をする人)として、書籍を出版されたり、講演など、多岐に活動されていますけど、一応会社員ということなんでしょうか?

疋田さん

もちろん。今日もさっきまで番組に立ち会っていたところですよ(笑)。

イノウエ

それが、最近話題になっている副業なのかなと、気になったので、お話をお伺いできればと思いまして…
書籍の出版や、講演活動は公になっていますよね?

疋田さん

ええ。そうですね。

イノウエ

会社には副業として容認されているんでしょうか。

疋田さん

そうですね。会社には必ず「社外活動届」というのを出しますし。それを受理してもらいます。それと、テレビ局って普通の会社よりも副業については優しいんですよ。

本名・疋田 智(ひきた・さとし)1966年宮崎県生まれ。
東京大学文学部美学藝術学科卒。同大大学院工学系研究科都市工学科修了。自宅から会社までの通勤に自転車を使う“自転車ツーキニスト”の草分けとして、自転車の乗り方、楽しみ方、理想的な都市交通のあり方などを論ずる。NPO法人自転車活用推進研究会理事、学習院大学生涯学習センター非常勤講師。TBS情報制作局プロデューサー。自転車関連の著作に「新自転車“道交法”BOOK」(枻出版社)「ものぐさ自転車の悦楽」(マガジンハウス)「自転車ツーキニスト」(光文社知恵の森文庫)「自転車生活の愉しみ」(朝日文庫)など30冊程を出版。

イノウエ

テレビ局は普通の会社と、なにが違うんですか?

疋田さん

基本的には「取材させてもらう立場なんだから、取材されるときは応えなさい」というのがテレビ局の考え方で。それとは別に、テレビ局の人間は、映画監督やアナウンサーとか、副業に向いたスキルを持つ人が結構多いわけで、会社としても「節度を守ってやってくれ」ということですね。

イノウエ

会社としては「隠れてやるんじゃなくて、堂々やってね。」ということなんですね。

疋田さんのご家族は、書籍を出版されることに対してどんな反応をしますか?

疋田さん

否定はしないですね。「パパの趣味はお金をもらえるからいいね」、ほんとそんな感じなので、協力的です。
週末にイベントに行って喋ってくるという仕事も多いんですけど、うちの場合、「週末にゴルフ行くお父さんに比べたら全然いいんじゃない?」って感じですね(笑)。

人生で本を一冊書きたかった

イノウエ

趣味の延長を、副業にできるのは羨ましいです(笑)。

疋田さん

あんまり儲かりませんけどね(笑)。

イノウエ

書籍では主に、自転車に関する本を出版されていますけど、もともと本を書きたかったんですか?

疋田さん

もとは文学青年でね。本がすごく好きで、自分の目標として、一生のなかで、何か1冊本を出したいというのがあったんです。
それで東大の文学部に行ったんですけど、実は高校まで、宮崎県の田舎にある理数科に行ってました。

イノウエ

文系と理系で、全く違いますよね…

なにか目指されて、理数科に進まれたんですか?

疋田さん

いえ、これがちょっと変わった理数科でね。その昔、昭和40年代くらいに、「全県医学部運動(一県一医大構想)」というのがあって。

国立大学に医学部を作って、無医村をなくそうという運動から、宮崎には宮崎医科大学(現 宮崎大学医学部)が設立されたんです。ところが設立されたのに、宮崎県から医者が生まれなかったんですよ(笑)。

イノウエ

なぜ、医学部を設立したのに、お医者さんが増えなかったんですか。

疋田さん

それは学生が東京や大阪からきて、卒業したらまた地元に帰っちゃうから。

それで、医学部の付属校みたいな感じで、県立宮崎西高校理数科というのを作ったんです。

で、私はそこに入った。だから若い高校で、私は9期生、ひと桁台なんです。

イノウエ

じゃあやはり、お医者さんを目指されていたんですね!

疋田さん

いや実はそんなことなくて、その理数科には、将来医者になりたいという人を全県から集めて募集するから県内一番の秀才君たちが集まるわけですよ。 そこに進学したはいいんだけど、医者になる気はあんまりなかったの(笑)。

とにかく本読むこととか、書くことが大好きだったから、文学部行くっていうふうに。

イノウエ

好きな作家さんはいたんでしょうか?

疋田さん

漱石だの太宰だの安部公房だの好きでしたね(笑)。

安部公房だけは学部が違うんだけど、漱石先生とかの後輩になりたかったわけですよ。太宰先生も東大卒業だしね。それで東大の文学部に行ったというね。

イノウエ

でも、そんな簡単に東大には進学出来ない気がするんですけど…

疋田さん

ああ、それは成績良かったから(笑)。当時はね(笑)。

イノウエ

当時、東大の文学部に進まれて、絶対やりたかったことはありましたか?

疋田さん

絶対やりたかったのはね、そうそう、一生のうちに本を一冊書くことだったんですよ。

イノウエ

じゃあやっぱり、東大でその方法を学びたかったということですか。

疋田さん

そうですね…でも東大で作家になる方法を学べる訳でもあるまいし、学んでなかったと思うんですよ(笑)。
大学に入ったときが85年のバブル前夜だったので。就職は1989年になるから、もうバブル期なわけです。
バブル前夜で入学して、絶頂期に入ろうとしてるときに就活みたいな話でね。大学だって浮かれて、もうキャンパスはレジャーランドっていわれていた頃で(笑)。

バブル時代の絶頂にテレビ局に就職

イノウエ

なんだか、バブル期の学生ってすごく楽しそう(笑)。
今のテレビ局に入社したのは、バブル期ということですか?

疋田さん

そうそう、文学部卒の連中がテレビ局や広告代理店もしくは新聞社目指すってのは、もう当時のお決まりルートでね。必然だったんです、それで、なんとなく、まあ時代の気分だったんだなというところで、テレビ局に入ってしまったわけですよ(笑)。

イノウエ

当時は、テレビ局への就職は簡単だったんですか?

疋田さん

いや、マスコミだけは難しかったですね〜。テレビ局って”バブルのり”の最たるもんで人気があって。競争率高くて、TBSは260倍だったかな。うろおぼえですけど。人気絶頂のフジテレビなんて400倍くらいあったんじゃないですかね。

イノウエ

え?!そんなに高かったんですか?
でも、それに合格されたということですよね。

疋田さん

まあ、運が良かったんですよ。

イノウエ

当時の試験内容は、今とそんなに変わらないんですか。

疋田さん

変わらないと思いますよ。筆記があって面接があって。

当時は面接がね、3回ぐらいあったのかな。筆記、それから集団討論みたいなものもあって、カメラテストがあって。合計5次試験ぐらいあったんですよ。

イノウエ

そんな試験をクリアされてきたんですね…
今は、疋田さんご自身が面接官をされるときはありますか?

疋田さん

ときどきありますね。で、いつも思うんですけど、今の学生たちは、真面目でいい子ばっかり。
これは間違いなく良いことで、我々みたいなバブル学生よりも、遥かに「できる」んだろうなと思います。イメージ的なものかもしれないんですけどね。

初出版が決まるまでの険しい道のり

イノウエ

TBSに入社してから、どのような経緯で書籍を出すことになったんでしょうか? 出版のお話をもらったとかですか?

疋田さん

私が28歳ぐらいのとき、インカ帝国以前のシカン遺跡を発掘するという番組を作るために1年半くらいペルーにいたんです。それで現地にいる間、テレビの原稿とは別に、「黄金の都シカンを撮る」っていう発掘記を、テレビ屋からの視点で、日記みたいに現地でずっと書いてたの。
でね、結構な分量になったんで、「これなんとか本にならんかな」と思ってたんだけど。上司から「TBSとして出すわけにはいかんな」といわれてしまって。

イノウエ

番組としては出せないと言われてしまったんですね…

疋田さん

それで当時、「小学館ノンフィンクション大賞」というのに応募したら、それが最終選考まで残ったんですよ。
でも、その年は最相葉月さんが書いた『絶対音感』 という大ヒット作品が大賞をとってね。グランプリ以外は本にならないから、出版できなかったの。

イノウエ

1年半もペルーに滞在してたら、相当な量を書いていたんじゃないですか?!

疋田さん

そうそう、原稿用紙で700枚ぐらい書いて、それが宙に浮いたわけですよ。

こうなると、やっぱり悔しいじゃないですか。で、なにかのテレビ取材で知り合った出版プロデューサーに、「こういうことがあったんですよ」と相談して、「これなんとか、本にならないですかね」と。

イノウエ

原稿用紙700枚も書いたら諦められないですよね。相談して、出版されることに?!

疋田さん

でも、事情を話すと、「そういう事情なら、無理だな」と(笑)。

イノウエ

出版するのは、そう簡単にはいかないんですね…(笑)。

疋田さん

ただ、「これだけ書けるんだったら、別のものを書けばいいじゃん」と提案してくれて。「疋田くん、なんか面白いことやってない?、人と違うことやってないことないの?」と聞かれて、「人と違うことといえば、自転車で会社まで通勤してるんですよ」と。

「それ面白いじゃん。どうなの?」「いや、痩せました」「そういえば最近痩せたよね」ってことで、「じゃあ書いてみなよ」って、その人が売り込んでくれたんですよ。

イノウエ

そこで出版が決まったコンテンツが、自転車通勤ということですか!

疋田さん

そうそう、それが1999年で、当時はまだ小さかったWAVE出版から、なんとか出してもらえた『自転車通勤で行こう』という初めての書籍なんですよ。

イノウエ

それが、副業としての始まりですか?!

疋田さん

でもね、それが全く売れないわけ(笑)。
世間が自転車というものに全く興味がなかったし、「自転車で通勤って、ママチャリで駅まで?」ってお話でね。私の名前も知られてないから、返本の嵐だったらしいんですよ。

初出版で大ゴケから、Yahooのトレンド入り

イノウエ

自転車通勤が世間にまだ、受け入れられなかったんですね。

疋田さん

でね、その頃ちょうど、今のブログブームのような、ホームページブームというのがやってきてたの。
だから、この本の宣伝のためにホームページでも作ろうと思って、当時の簡単なソフトで、それを作ったんです。

イノウエ

それは、疋田さんが独学で学んで作ったんですか?

疋田さん

そうそう。あの頃はまだネットの情報が玉石混じってて、不親切なものが多かったから。何か調べるというと、本屋に行って専門書買ってきてというのが普通でね。

今のブログみたいに簡単じゃないし、個人がホームページ作るのは珍しくて、たった4ページだったんだけど、ハードル高かったですよ。

イノウエ

ネットの情報も、今より普及してない時代ですもんね。

疋田さん

でも、私にとって幸運だったのは、当時、ほぼ唯一のポータルサイトだったYahoo!が1週間だけ、「自転車通勤、密かなブーム」みたいな見出しで載っけてくれたんですよ。
まだ「ブーム」なんてきてなかったのにもかかわらずね(笑)。そしたら、これが当たったの!

イノウエ

トレンドに掲載されたのは凄いですね。それはたまたまだったんですか?

疋田さん

たまたま!でね、気がついたら10万、100万とアクセスがあって、本も売れて、名前も知ってもらえるようになって。
その後の本で、『自転車生活の愉しみ』(東京書籍)が10万部ぐらい売れたんですけど。その直後に自転車ブームが追いついてきたという感じですね。

イノウエ

じゃ、書籍を出版することは、もともと副業のつもりで始めたわけじゃないんですね。

疋田さん

そういうつもりじゃなかったの。もともと自転車が好きで、書きたかったから。

イノウエ

本業であるテレビ局でのお仕事と、本を書く仕事というのは、両立できたんでしょうか。
どちらかが、おろそかになってしまったことはないんですか!?

疋田さん

他人の見方は別として、本人はおろそかになってなかったと思ってますよ。

最初に本を書いたときにいた番組が「筑紫哲也ニュース23」で、その後いろいろありながら「ブロードキャスター」という番組に移って、番組在籍中にディレクターからプロデューサーになりましてね。その後、「ひるおび!」「朝ズバッ!」っとやってきた。

イノウエ

書籍の出版をしながら、本業もきっちりやっていたんですね。

疋田さん

そう、最近では「上田晋也のニッポンの過去問」ってのが思い出深い番組でね。
深夜帯なんだけど、それなりに視聴率もとったし、好きにやらせていただきました。

副業を通し、自分のフィールド以外にうまれる人間関係

イノウエ

本業での成果が、副業にも生かされそうですね。

疋田さん

そう、副業やっててよかったなと思うことは、人間関係が広がることなんですよ。
昨今は、自転車を趣味とする社長さんなんかもすごく多くて、本来の自分がいるフィールドとは関係ないところにも人脈が勝手に広がるというのが、すごくいいことですね。

イノウエ

テレビ局の人って、もともと人脈が広がりそうなイメージがありました。

疋田さん

それがね、案外、閉鎖的な部分も多いんですよ。特に取材に出ないポジションにつくと会社にずっといることになっちゃう。でも別のフィールドを持つと、そこが変わるという。
別のフィールドから見ると、テレビってこんな風に見られているんだな、ということがわかってくる。

イノウエ

別のフィールドを持つことは視点を替え、俯瞰して見るきっかけになっているんですね。

疋田さん

だから、「疋田さんは(他の局の人と)見てる角度がちょっと違いますね」というのはよくいわれて。さらにいうと、他の視点というのは、いわば視聴者の目線じゃないですか。

イノウエ

たしかに…視聴者の目線ですね。

疋田さん

テレビ局の中にいると、制作者の視点しかなくなっちゃうわけですよ。

それが視聴者の目線、他業界の目線を持つことができるから、より一般視聴者に近いほうに落とし込むことができると思うんです。

イノウエ

僕らもそうなんです。メディアを作っていく上で、「こういうものを発信したい」と思うけど、「じゃあ、それが本当に求められてるのか?」ということをよく考えますね。

疋田さん

あるでしょ?

イノウエ

たしかに、そういう視点に立たないと出てこない企画もあるなと。そういう意味で、副業というか、違うフィールドで何かやってみる、というのは大切ですね。

疋田さん

やっぱね、クリエイターの立場っていうと聞こえがいいけど、ずっとその立場だけで見てるとタコツボにハマっちゃって。
オリジナリティっていうと聞こえはいいけど、独りよがりになってしまうってことが、割合あるんですよ。

イノウエ

僕も、企画立てや制作時は俯瞰した目線で見るように心がけるようにします。

まとめ

初めて出版されてから早20年が経ち、本を購入する先がインターネットへと変化しつつあります。初出版での大ゴケを経験した疋田さんが、次に起こした行動は自らホームページを作成し、メディア露出を増やすことでした。

結果的にYahooトレンドに掲載され、次の書籍で10万部を果たすことができたと話してくれました。自ら起こした行動で結果を出すには、最後まで責任を持ち考え、諦めないことだと教えていただきました。

副業で別のフィールドを持つことが、本業にもフィードバックされ、今ある視点とは別の視点を持つことで、本業で成果を出すことに繋がるかもしれません。

今回取材にご協力いただきました、BEX ISOYAさま
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